מבנה

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2018年10月26日金曜日

トーラー自身の世界の触感を解る

トーラーを学ぶとは、トーラーが世界の何処に触れているかと言う事を捜して味わう事ではないでしょうか?トーラーが世界をどう味わっているかと言っても良いかも知れません。トーラーの経験を私達が追体験する事ですが、トーラーの世界の触り方を追体験したら良いのです。トーラーの独特の世界の整理の仕方を知るべきなのです。きっとその個性が解る筈です。

編集の合議性を疑ってみる。

トーラーの編集は多くの賢者による合議制的方法ではなかったか?議論の跡が十分整理できないまま取っ散らかしたままである為その様に感じるのである。もし一人の編集であれば用語の整合性に気を遣うべきところを無理をして押し込めた様な跡が見えるのだ。考えすぎだろうか?それでも未だ十分学べる対象ではあるのだが。

機微を学びの軸にして!

トーラーの様なものを学ぶと言った時に必要な態度は機微というものではないか?トーラーを感じ取る為には繊細さが必要だと言っているのだ。少しの変化をも見落とさない事が必要なのであろう。特にトーラーは僅かな変化と落差に表現の主要部分を設けているものに対しては観察眼を見開く必要があるのだ。ちょっとした変化を見落としてはならない。

2018年10月25日木曜日

彫像と偶像

仏教は仏像を作っては人に拝ませているが、これは仏教のオリジナルではない。マケドニアのアレキサンダーの東征によって、ギリシャの彫像文化が仏教と出逢った結果である。仏教は元々彫像を作る習慣はなかった。奇しくも、仏教とキリスト教で彫像を作る習慣がほぼ同時に開花したと言える。キリスト教はユダヤ教時代に警戒してきた偶像への疑問を破ってしまったと言える。仏教は警戒すらしていなかったのだが。
トーラーは長い物語と思って圧倒されては行けない!能く観ると小さい物語に分割されているからそれぞれの小話に別けて読めば意味が次第に取れるようになる。小話毎にテーマを出しているので解りやすいはずである。

覚える事が主要な宗教的行為

トーラーは兎に角覚える事!今はまだ解らなくて良いから、今やるべき事はトーラーの物語を頭に叩き込む事。いざという時思い出して役に立てれば良い。宗教的行為はこの様に記憶する事に集中する事。記憶しながら、反芻する事だ。トーラーにはつい見逃してしまいがちの部分があるからだ。最終的には成人して以降トーラーの真の意味を自己実現する事で結実させてくれ!

改名とは?

トーラーは神が二度名前を変更してる位だから、人も改めろ!と言ってるのではないか?アブラハムもヤコブも改名してる様に、変化をしろと言っている。アブラハムとヤコブはどの様な時に改名しただろうか?二人とも自らの生き方を変えたのではなかったか?その様にして名を残したのである。改名は生き方変更の象徴である。トーラーは注目して欲しいが為にわざわざ改名してみせたのではないか?しかし、アブラハムの妻サラまで改名の必要があったのか?謎である!

2018年10月24日水曜日

トーラーへの気付きを記憶する技術

私がトーラーに急接近出来たのは病気で入院した時期であったが、それはほんの閃きに過ぎなかった。丁度同じ頃娘からタブレット端末を誕生日プレゼントで贈られた。閃きを必死になってタブレットのメモに書き留める事が出来たのが始まりだったと記憶する。しかし、同時に日常生活に於ける老化は更に激しく襲いかかり短期記憶の急激な減退と言うか、老化は激しかった。トーラーについての閃きがあっても短い記憶力では自分の考えた事も風に舞う木の葉のようであった。そこで必死になって記憶の定着を心掛けて反芻したのだった。その後は最初の閃きをも反芻し直し、閃きの形を素描して、型を造った。漸く閃きの状態から脱して他者に通じる筈の言葉を獲得して行ったのである。

下手なユダヤ研究はするな!

世の中のユダヤ研究者は、トーラーを読んでいるのかと感じる。ちゃんとトーラーを読んで、各現象を研究しているのか疑わしくなる。表面的なユダヤ人を観察した所で新たな偏見の萌芽を作る事ではないのかと危惧する。トーラーを正確に読んだ上で様々な現象を研究して頂きたい!

伝承と文化

トーラーに行き着く迄には伝承の時代が長く続いたのであろう。伝承であっても文化である。その後文字に書き落とされて文字通り文化になったと言える。文化のままでは伝えられるだけである。これを乗り越える行為営為があってこそトーラーの意図するところであろう。トーラーは常に行為、営為に押し出そうとしている。最低限その様に衝動を促している。それは平たく言えば新しい行動創造へ、即ちオリジナルな行為、営為の事である。トーラーには真っ先に初物に対する言及がある。

トーラーのダイナミズムとは?

トーラーには旧い層から革新的な層まで共に記述されている為、それらを同時に読む事は読み手のスタンスによっては混乱を与えるかも知れないが、ここはどうしても整理して受け止めなければならない所であろう。新旧の落差を知るべき事を。トーラー記述者の意識をどんな手を使ってでも探り出し、学ぶと言うスタンスに立たなければ、理解には至らないだろうだろうと言う事を。必ず旧から新へと変化してるのである事を。この様な旧から新への変化も表現方法の一つであり、ダイナミズムであり、学べる点なのであろう。

ユダヤ研究とは?

世の中のユダヤ研究者は、トーラーを読んでいるのかと感じる。ちゃんとトーラーを読んで、各現象を研究しているのか疑わしくなる。表面的なユダヤ人を幾ら観察した所で新たな偏見の萌芽を作る事ではないのかと危惧する。トーラーを正確に読んだ上で様々な現象を研究して頂きたい!と存じる!ユダヤ研究者が半可通のまま流布する事が新たな手の込んだ偏見を生み出す可能性もあるのだ。トーラーの主張にちゃんと耳を傾けてこそのユダヤ研究と言えるのでは?その前提は人が適切な生存権利を行使すべきであるという事ではないのか?

トーラーの最も学ぶべき点

トーラーは神を否定しなかったが、しかしながら、神の定義は二度更新した。トーラーはここを学べと言っているのではないのか?然り!トーラーは神を信じる者達に語り掛けたのではないだろうか?神々は否定を免れて装いを新たに出来たのだ。未だ役めが残っていると言っているのだ。そうだ!神は未だやるべき事が残っているのだ!未だ世界は終わっていなかった。

2018年10月23日火曜日

トーラーとその資料との関係

トーラーに集約された文書は凡ゆる方面から集められた資料を成る可くそのままの状態で掲載しているが、それはあくまで「なるべく」ということであり、トーラーとしての主張の為に更に編集を加えたのだろうと推測します。

2018年10月22日月曜日

創造の範囲

生活改善も立派な創造の一つである。理由を問うまでもなく、これは生存と生活への執着である。生きる上で環境を整えることになっているからだ。どんなに格好悪くても、生きる事への執着は欠かす事は絶対出来ない。

創造の失敗から学べ!

創造の行為は失敗が付き物である。失敗は出来上がった後にもトンデモナイ結果を齎す事もある。しかしながら、創造の動機を諦めてはならない。捨ててはいけない。同じ志を引き継いで完成させるべきである。失敗した理由は見落としがあった筈なのである。挫けずに続けなくてはならないのだ。改めて見直してやり直したら良いのだ。

2018年10月21日日曜日

学びとは知識が生存する為に血肉化した時に言える事だ。だから、知識は量で測るべきものではない。質で消化するものではないのか?知識を量に貶めた世界を作った事は誠に遺憾であった!そういう世界に慣らされるがままになる事も自己に対する悪徳である。教育に携わる者は貶められた知識の位置付けを回復する為の改革に着手しなければ、最早取り返しのつかない事になるよ!これは基礎的な問題意識から来ている。トーラーを学んで得た関連する問題意識でもある。こういう事に敏感になってしまうのである。

言葉は木の葉の如し!

イエスは愛という事を言いましたが、私なら同じぶっきら棒な言い方でも「豊かな心」とか「豊かな人間性」「豊かな感性」とか言いたいですね!単語一語のみの勝負では通じ難いんじゃないでしょうかね!単語だけでは直ぐ錆び付いちゃうじゃないですか?言葉というのは短いと日持ちが能くないんですよ!だからトーラーは物語を多用したんじゃないでしょうか?物語を喩として専ら人に考えさせる事にしたんじゃないでしょうか!だから、トーラーは人生を学ぶ練習問題集なんじゃないですか?イエスは教科書にしちゃったんでしょうが!ラビ達はトーラーを記憶する事や覚える事、又、様々な方法を使って覚えさせる事に腐心していたんじゃないでしょうか?言葉は木の葉の如く風で吹かれて落ちて腐り易いんですよ!

2018年10月20日土曜日

知識は量に飛び付くべきか質に注目すべきか?

日本では無条件に知識の量が多ければ持て囃される傾向があると思いますが、そろそろここから卒業するのも一つの知性ではないでしょうか?ではどういう方向が考えられるかと言うと独創性と言う事ではないでしょうか?しかし、日本人は知識の量は測定しやすい為、独創性を測る方法が見つからない為独創性には匙を投げると思いますね。しかしどこかで知識の量に依存する所からの脱脚は必要かと思いつつ、優柔不断さを奏でるしかないのでしょうか?

宗教と体験

宗教と言うのは何とか教のメンバーでいるだけではこれ程詰まらないものは無いだろう。所属だけでは何の意味も成さない。素の人間としての葛藤を経なければ全く意味がないのではないか?オリジナルの行動があってこその関わりではないのか?その様な事なく奉ったり聖人だの福者だのは無いだろう?!それも本人の関わりの無いところで!

気づきの方法

自らの葛藤に耐えかねて他に助けを求める事が外の存在を認める事になるのだろう。神や悪魔や霊魂である。しかし、考えても見給え!大事な問題は自ら生きる事に他ならないではないか!トーラーはその様な気付きを促しているではないか!神自ら名前を変えるまでして!
キリスト教神学はユダヤ教での倫理的問いを繰り返した結果を飛び越えて、かなりの任意的神学を想像力逞しくして創り上げたものになっている。ユダヤ教ではこれと言った神学を創り上げた訳ではないのに。過去には神の定義を二回程更新した事があるが。